まぼろしではなかった あの〈でんえん〉
まぼろし ではなかった あの〈でんえん〉
ーさいとうたかをさん、永島慎二さん達がまんがを描いた場所ー (ふろくとして 貸本のセカイ)
ー①ー
某月某日のことでした
ふとしたことの会話から○ちゃんが(まだありますよ、行ってみますか?)
えーっまだあるの⁉︎ ほんとにー〜‼︎
それがあの名曲喫茶〈でんえん〉でした
それの日は夜の事でしたからお店の前まで行ってみて もう閉店してたのだけど写真だけは記念に撮っておいた。
このでんえんはねー、と歩きながら話したのは
かって60年ほど前にここに住んでいて劇画を描いていた若き(さいとうたかを、永島慎二、)さん達が居た場所、つまり〈自分の中の〉想い出と言えるほどの場所でね…
いっぺんに中学生まで話は戻っていく〈言ってみれば〉タイムトラベルみたいなもの
それが まぼろしではなくほんとに存在してたとは…
いつか行ってみたいね!(そう話しながら帰ったのだが…)
ただ そのときは確信は持てなかった もしかして全く別な同じ名前のお店 なのかも知れないと
永島慎二さんの「漫画家残酷物語」の中の一編に その店は描かれてる、若きさいとうプロ?の面々がどやどやと入ってくる(ウェートレス目当てか?チョッカイを出すゴリラ←さいとうさんのあだ名)
この本のそのコマを探してみたがあいにく三巻あった本も(貸しちゃって)今は1冊のみ、その中にはなかったのだけど(記憶は鮮明に覚えてる)
事実は、この店は本当に“そのでんえんなのか
”?に尽きる
某日のこと、ほぼ忘れてた頃に○ちゃんが その〈でんえん〉の出てる案内ネットを送ってくれたのでちょっと見てみたら うん間違いないようだ!あの、アレですよまさに!まぼろしではなく本当のホントのアノ〈でんえん〉なのでした‼︎
で、(今度の土曜に良かったら行ってみませんか?)はい!と約束をし 行くことにした。
最初の日から数えればもう一月も前かもしれないけど 某月某日、丁度お茶くらいの時間が良いかな?と
三時前に某駅で待ち合わせて行って来ました
あ、近付いて来た!もー 映像撮っちゃお、〈でんえん〉のドキュメンタリーだっ 笑
※写真もばちばち 店の外だけど、(中は聞いてみないと分からない)
ギィー〜、(ドアを開ける)
やっ! お店のおんな主人?(出迎えてくれ)
〈お好きな場所にどうぞ〉と言ってくれて
〈この店は63年前からやっています、古くて汚いですが。〉と………やっ、こちらが聞きたいことを先に教えて貰えちゃった!(やっ綺麗ですよ〜)と、
※ここはホント、だってつるんつるんな店だったらガッカリじゃない?適度な色の落ち具合や光の暗さかげんなどは、まるで(自分ち気分です(^.^))
お店のオーナーであるおんな主人は92歳である(と下調べで知ったとはいえ)とてもシャキンとしててすばらしいたたずまいでした。(あとで壁の絵を見たらモデルは主人だとすぐ分かっ
た)
〈あと何年出来るか?(分からない)〉と言っていた、たしかに先のことは誰も知らぬ、ものだが例え
一年でも、たったの 一日でも、永く続いてて欲しいと(切に望みたい)
もう少し(確信持ちたくて)チーズケーキを運んでくれた時に聞いてみた。
さいとうたかをさん、永島慎二さん達はこの店に来てたのですか?
〈ええ、ええ、昔はみなさんこの近くに住んでたんですよ、ちょうどこの席(すぐ隣の1人か2人しか座れない椅子を指して〉で良く仕事をされてましたよ。〉えーー〜❣️(もう一度びっくり)
まざまざと当時の知らない風景がリアルさを持って存在したのだ‼︎
一緒に来た○ちゃんは何も知らない〈センセは興味有るだろう〉と、誘ってくれたので持ってきた漫画家残酷の一編=第6話「陽だまり’」をダイジェスト的に見ながら、セリフも言ったりして話したら一変に好きになったようだ。
※昭和39年の漫画だ。ー初秋
午後ー5時頃ーこの話は始る
漫画も描かず(夕暮れ時は紙飛行機で遊び)
ー夜は新宿、(安い大衆食堂)
手紙をポストに投函ー
※どうやらこの先は過去に過ごしたわずか3日間の水野 亜美子さんを(思いつつ)の物語のようだ。
ーー君とは二度と会うことはないはずです。 さようなら、おやすみなさい。1963・10・15・午前・4・43・真読 久詩 拝ーー
Jazzの空間は音がムンムンするようである
その中にレイモンペイネの描くような少女が魅力てき、毎日毎日来る若者には少女から〈メモの筆談で〉話しかけた。
朝1番電車に乗り主人公の好きな野球グランドで
少しの会話をし、少女は唐突に(死なないでくださいね…)えっ!と見抜かれてしまった! かのように(絵のコマは)小さく固まる。。それからいくつかの話を2人はし、夜明けのグラウンドには朝が来て
少年野球が始まる音〈カキン〉と重ね合わせつも
2人は草の上で〈グーと〉眠る ーEND,
今見ても短編映画を見てるようだ、10代で見るもの全てが良い訳ではない、好きなもんは好き、なので有る。(永島慎二さんを知ったのは実はさいとうたかをさんが先で、さいとうさんの漫画(劇画)の交流から知ることになった、
中学ではさいとうたかをさんの「台風五郎」に夢中になったが、15歳で卒業のち(アニメーターになった後)ちょうど青春期の頃には永島さんに惹かれっぱなし、だったのだ!
※18歳の時初めてお話出来る機会に恵まれ(その後はどう言う訳か永く永く交流を持たせていただき深くとても感謝の極み、とてもありがたかった)たのですが、本当は中学生時に最初にあっています。場所はさいとうプロで、夏用の白いスーツを着て凄くダンディな感じでいやー カッコいいので話しなどとても無理、ただこの時とてもきになる存在になったのはほんとうです。
※その後まさか永島さんがアニメーション界に来られることになるとは‼︎(ここら辺の話、長引いても困るのでいずれまたの機会に)
初めて白いスーツの永島さんを目撃⁈したのが
1962年?の頃ではないかな?(きっとこのでんえんから離れて住まいは 短編「陽だまり」のように上井草だったのかも知れない)
話を〈でんえん〉に戻しましょう(ここには永島慎二さんの本が割と多く置かれているのは、奥さまが かってでんえんをお手伝いした時代、が有ったからですね)そこに有る深いドラマが有ればこそ☆漫画を(描く)原点とも言える場所なんじゃないか、そう思えたのです。
かつてみなさんが座って原稿を描いたのだろう?その同じ場所に座り、想いに耽るのも それは有りです。
お店はそんなに遠くない近くなので、また行ってみたいなと思います。
まぼろしではなかった☆
コーヒーもチーズケーキもとても美味しかった。
ー昭和32年(1957年)オープン、ご主人の好きだったベートベンの「田園」からお店の名前は付けられた。
〈名曲喫茶でんえん 新井富美子さんの記事 TABI LABO が有りました↓(イメージ通りな感じを受けました)宜しければお立ち寄りください。〉※何回かに分かれてお話をされています。
https://tabi-labo.com/282998/Denen_03
2019-7・13 そして7・16
ー②ー
いろいろあるのでコレクションの意味で
追伸 補足のオマケを付けます。劇画を想い出すのはもう中学生に戻ると言うことに尽きる。
アニメーションの世界に行く前は「貸本」の夢のような世界に憧れていたのです。
貸本屋は夕暮れから妖しい光を放っていた。
何故だろう?少年漫画しか知らなかった学少年は
どうしても行って見たかったのに、(いつも迷って入れない)行けなかった。。
ある日ーー(勇気を出して入って見ると)
ーおどろきの怪しの本が所狭しと並んでいたー
ま、そうは言ってもこずかいは5円か10円なので
ー一冊借りたらぜんぶがなくなるーー
だが 夢中になれる世界がそこにはあった
特に変わってたのは(白土三平や、水木しげる、平田弘史、)などだろう、子ども漫画には絶対にない《血が飛びかう》からだ‼︎ ー正にしょうげきだー
(でもお小遣いはわずかなので、選択したのは?)
ー劇画集団とその後に名乗ったグループたちの劇画ー
フランス ノアール的やハードボイルドやアクションや
スリラー的な内容も有ったこのせかいにハマる
ーー特に「短編」が集まったこの月刊の貸本誌ーー
影、街、摩天楼、刑事(デカ)、ゴリラマガジン、
作家たちの代表として、さいとうたかを、ありかわ栄一(園田光慶)、石川フミヤス、そして永島慎二、なのです、この世界に夢中になり、自分も真似て描きたいと思い、その日常も変わっていったのだった。。
※似顔絵投稿にハマる(毎度にハガキ絵を描いて出す)
出せば載せてくれる感じ、(約9・5割)
ーーその掲載のご褒美として肉筆原画が送られてくるーー(当時は原稿をハサミで一コマずつ切ってた)ーーしかし子どもの学少年はこれが嬉しかった!ーー
※このしきたり?(原画を切る)を止めさせたのは(白土三平さん)らしいと聞く、(その後はなくなる)
ーーその後の(月刊誌)ガロ の創刊 ーー
ーー夢中になり過ぎか 劇画グループの同人誌作りにはげむーー(せっせと作ってたな〜)いま思えば恥ずかし↓広告なんか出しちゃて 笑
友だちをまきこんで、やがて友も去りを過ごしているうちに姉が新聞のごく小さな募集欄に〈東映動画、アニメーター募集〉を見つけた(やってみたら?)と、、そそのかしたのか?(この先の話は長いので割愛とす)
(新聞には国産初のテレビアニメとの)【鉄腕アトム】が始まり、つられるように
アニメ放送が増えていった(そんな昭和38年ー1963年ーころの話し)時代ー※東京タワー、新幹線、巨人大鵬玉子焼、翌年の東京オリンピック、チキンラーメン、(おめぇヘソねえぢゃないか?のカエルの🐸cm)。。
おおはし学ぶくんはよく年の卒業の春、晴れてオトナのセカイ?トウエイドウガに行くことになった。
ーそして(同時に)いつの間にか「貸本屋」のせかいは遠のいて行ってしまっていた。
その。。
「貸本屋」が急速に廃れていったのは テレビ(1番の娯楽)と言う流れが徐々に家庭へと進出して行った時代だと言う事と無関係ではないだろう。
※今のコンビニ店のように有った?「貸本屋」も全国で三千を切ったら、ブームだった劇画本の作家たちは食べてはゆけなくなったのだろう(その店舗数こそが=すなわち本の=印刷部数なので、とうていベストセラー本などは見果てぬせかいだ、本は買うのではなく借りるからこそ「貸本屋」と呼ぶ せかいなのだから)。
やがて劇画家たちは 夫々の道へ、ある者は 雑誌界へ、アニメ界へと、別れて行き…
(その後のTVアニメは様々な変貌を迎え、やがて60周年〜80〜100周年へと?向かうのかもしれない)
こうして見れば娯楽が(時代と共に)変わっていくのは(誰にも)止められないものなんだね☆
ちいさな名曲喫茶「でんえん」から いろんなことを思い出してしまった。なつかしい当時のことは すっかり忘れてはいたが・・・
ー でもね、昔懐かしことは いまでもいつまでも
有ってほしいー
2019年7月17日 大橋 学 記す
ー 追伸のお詫び ー
この記事(昨年、19年に書いたブログ記事)から1年以上も経って(投稿出来ずにいて)しまったのには 訳がありました。
→《2019年 7月18日(木曜)京都アニメーションの火劇な日》
この事件があり、呑気なブログは出せなくなったのでした。 (あまりにも殺伐した事件に驚きを隠せない)
何故?自分のようなマンガ少年は多数いることだろう
そんなささやかなちいさな夢たちを滅ぼしてはいけないよ、そのちいさな夢は(周りの人に支えられつつも)育てていかないと 途切れてしまうではないか…!いや!…途切れずに繋がらないと いけない この世界は子供の心を持った少年少女たちの夢なのだから☆
20-10・11 大橋 学