アニメ千一夜 日動のころ 森 やすじ :東映動画ガリ版誌「あしおと」より
森やすじさんと大工原さん。(額を持って下さったのは高畑さん)
=《文芸》=
アニメ千一夜
その(1)
=《文芸》= 「あしおと」より
注:大橋学からの補足 東映動画には正式な社内報が(1)あり、それ以外に有志が出している「あしおと」(2)と「しあげ」←(仕上げグループからのガリ版誌)(3)とが存在した。ここで抜粋させていただいたのは“K 生”こと(大塚 康生氏 代表グループの自主的なガリ版誌)「あしおと」より第一回「森 やすじ」さんのアニメ千一夜が埋もれたままでは勿体無くて、また自分でもちゃんと読み返したくて保存用に文字起こしさせていただきました。もしかしてちゃんと森さんの自伝には載っているのかもしれませんが重複してたらごめんなさいです。年代は同期の人も載ってるので太陽の王子の準備のころ、又は作品の中断した時期と思われます。1966〜1967?
日動のころ
森 やすじ
昭和二十三年、私が日本動画社に入社した時には日本にはまだ マンガ映画を作るスタジオは数える程しかなく他に日本漫画 芦田漫画 大藤氏の千代紙映画などがあり、
日本動画社には「クモとチューリップ」「すてネコトラチャン」などを演出と原画を描いた政岡憲三氏がおられ マンガ映画の草分けである山本善次郎氏が社長でした。
アニメーターには(アニメーションだとかアニメーターなどという言葉はずっとあとになってから使われるようになったのですが)「クモとチューリップ」やそれ以前から政岡氏のしていた熊川正雄氏(三幸スタジオ)
浜 康雄氏(当スタジオ特殊効果)など四、五人おりました。
藪下取締はその頃 撮影の方を担当していました。
スタジオといっても牛込若松町の成城高校の一階と二階の二部屋の教室で、撮影台はオンボロが有りましたが、映写機などはなく ラッシュなどは夜おそく映画のはねた映画館に見に行った事をおぼえています。
私は見習一カ月で彩色をやらされましたが 月給は千円でした、
当時としてもベラボーに安くオヤジに無心の手紙を書きました。
仕事は政岡氏の「トラチャンの花嫁」を制作しておりましたが すぐ一時中止して鉄道省からの依頼の作品「ポッポさん駅長の巻」を作る事になり熊川氏が演出、原画を担当しました。
その頃私も二、三人と一緒に動画にまわされ給与もピースワーク(出来高)になり私も下手ながら毎日残業をやったりしていましたから 幾分よくなりやっとカストリやショーチューなどを飲み歩く事が出来るようになりました。
作画システムはほとんど現在と変りなく、ただ二巻物の作品でしたから 演出家というものがなく 原画家が演出をしていました。
やはり原画をもらって出来上がったら原画家のトコロに持っていき 胸をドキドキさせ イヤーな感じだなと思ひながら原画の人の言葉を待ったのを記憶しています。
二十四年になって「トラちゃんの花嫁」が完成
ポッポさん第二作「機関士の巻」が作られ その頃 日本漫画から古沢日出雄、福井英一(故人)、木下としお、木村一郎などという方が移って来。
背景には大工原氏が手伝いにやって来たりし 日本動画社の一番活気のある時代でした。
ですから彩色にはアルバイトが大勢来て居りました。
近くに日本女子医大が有りましたので そこの女子学生や女子美の学生などでした。
私はもうヒゲを生やしていましたが
モテテ、モテテ
困ったものです。
その中に現在の私のオクサマが来て居りまして とんでもない事になった
というワケであります。
編集后記
十月二十一日のベトナム反戦ストを目前にひかえ、各センモン部の活パツな動きが目につきます。
あしあと班も新執行部のもとに新しく編成がえされてから早く第十二号を出さなければと思いながらも なかなか思う様にいかず、
それでもなんとか十二号を出すまでにこぎつけました。
これからはもっと良いものを出して行こうと一同気力充分ですのでよろしく
K 生
🌸あなたのクセは?
○人と話すとき、物を考える時、自分のいる所が机の上でも、椅子の上でも、又はどんなに広いところでも、足をおりまげ、ひざをかかえて、小さくうずくまるくせがある。
演出 高畑 勲さん
=【妥協はしない】=
奥山 玲子
私は照れ屋なので、抱負とか何かを気負いたった言葉で述べることは好みません。ただ、自分の納得のいかない仕事、妥協や迎合はしたくないと思っています。
それでなければ、会社の仕事以外に、わざわざ絵を描いたりする必要はないわけですから。
いろいろと思うところあって、今はスランプ気味。その波が時期的に重なったので、困ったなあ と思っているところです。
10作
林 静一
男とは男性で
女とは女性である
男とは斗いで死ぬが
女はきずつくが死なない
男とは、悪者ぶるけどけして悪者ではない
女とは、善者ぶるけどけして善者ではない
↑(林静一さんとはご存じ「小梅ちゃん」で有名なイラストレーターさんですがこの当時は18か19歳です、ホルスで海岸の波打ち際を自身で撮影しライブアクションとして波のカットを1ヶ月間描いてたそうです。(親しい友人の談話)これが東映での最後かもしれないですね。
森やすじさんと交流を持たせていただけたのは「のどか森のー」お仕事でマッドハウスに来られた時↑この「雲と少年」をお渡し出来たのが直接のきっかけと成りました。この時とてもびっくりしたのは座っておられたのに急に立ち上がり(この森さんから見たら新人のこの大橋学に)頭を深く垂れてご挨拶された事です。ものすごく恐縮しました。自分の本も丁寧に読んで下さり後で感想を書いて下さいました。ただただ嬉しい限りです。
ほぼ晩年に成りますが森さんの展覧会で久しぶりにご挨拶ができた時。
(その感想を再録させていただきました) もうもしかすると大橋学も森さんの年齢を超えたのか?それぐらい森さんは早く亡くなられたのはとてもざんねんなことでした。
左より高畑 勲さん。中央(故人)白川大作さん。右に 大塚 康生さん。(東映でのOB会にて撮影
◎とても全部は紹介出来ないので一部抜粋です。この後も読みたいのですが多分長編も忙しくなりガリ版誌は自然消滅したのではないか?と思われます。「時代的には数年以内に大多数の一流アニメーターは東映動画を離れて行く事になる」からです。
記憶の記録 2017ー1/23 大橋 学